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遺体修復士の備忘録

2025.04.7 グリーフ関連のコラム

撤去されたのは、遊具だけじゃなかった 〜社会のグリーフと失われた居場所〜

撤去されたのは、遊具だけじゃなかった 〜社会のグリーフと失われた居場所〜

この記事は、ふと感じた“最近の子どもたちの生きづらさ”から生まれた私の考察です。かつては当たり前だった風景が、静かに消えている今、何を喪ったのかを一緒に考えてもらえたら嬉しいです。

1. 昔あった“遊具”の記憶

子どもの頃、公園にはたくさんの遊具がありました。滑り台、ブランコ、ジャングルジム、鉄棒。時に危なっかしく、でも夢中になれる“冒険の舞台”だったのです。転んだり、ケンカしたり、泣いたり笑ったりしながら、私たちは“社会”を体で覚えていきました。

でも、ある時を境に、それらの遊具は静かに姿を消していきました。「危険だから」「安全基準を満たさないから」——。そうして失われたのは、子どもの「遊び場」だけではなかったのかもしれません。

2. 「消えていったもの」は遊具だけじゃない

学校には昔、勉強が苦手な子でも、足が速ければヒーローになれたり、掃除を一生懸命すれば褒められたり、誰かの“味方”として存在できる余地がありました。

けれど今の学校では、通知表やテストの点数といった「数値化しやすいもの」だけが評価され、個性や感受性のような“測れない価値”は、徐々に切り捨てられていっているように思います。

3. 評価される子ども、埋もれる子ども

「生きづらさ」を抱える若者の多くは、実は高い知性や感受性を持っています。しかし、社会が求める“正解”にフィットできなかった彼らは、孤独や自己否定の中で自分を失ってしまいます。

かつては見えなかった“引きこもり”や“不登校”が、今では珍しくありません。その背景には、社会の価値観の一極化と、居場所の消失があるのです。

4. 社会に空いていた“余白”と“逃げ道”

昔の社会には、「逃げてもいい場所」がありました。近所の公園、叱ってくれるおじさん、駄菓子屋のおばあちゃん…。子どもたちは、学校とは違う空間で、自分を取り戻すことができました。

今はどうでしょう。公園の遊具は撤去され、大人は声をかけることも憚られ、社会全体が“正しさ”で縛られるようになっています。逃げ場が、もうどこにもありません。

5. 引きこもりは個人の問題なのか?

ネット掲示板に「ワイ、ニートやで」と書き込む人々。その声は自嘲でもあり、悲鳴でもあります。社会に属せなかった自分を笑いに変えなければ、崩れてしまいそうな孤独と葛藤。

引きこもりは“その人が弱いから”ではなく、社会がその人たちの感受性や傷つきを包み込めなかった結果なのかもしれません。

6. これは、“社会の喪失体験”ではないか

喪失とは、身近な人を亡くすことだけではありません。かつての常識や、当たり前だったつながりが消えていくことも、また一つの“グリーフ(悲嘆)”です。

私たちは、まだちゃんと“失ったこと”を悲しめていない。だからこそ、どこかで社会全体が立ち止まっているのではないでしょうか。

7. グリーフケアという視点で捉える社会

終末期ケアの現場では、亡くなる人だけでなく、その人が失っていく「役割」や「つながり」にも丁寧に寄り添います。

今の社会にも、同じ視点が必要です。喪ったことを見つめ、言葉にし、少しずつ受け入れることで、初めて再生が始まります。

8. これから私たちにできる“弔い”と“再生”

もう一度、問い直してみましょう。

  • 子どもたちにとって、社会は「居場所」になっているか
  • 多様な生き方を、私たちは本当に受け入れているか
  • 評価されなくても、そこにいていいよと言える空気があるか

遊具の撤去は象徴にすぎません。その背後には、みんなで見送らずに放置した“何か”がある。その痛みを、いまようやく言葉にし、「社会のグリーフ」を弔い始める時なのかもしれません。

あなたが思う“失われたもの”は何ですか?
今、社会に必要な“余白”とは何だと思いますか?