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遺体修復士の備忘録

2025.04.9 グリーフ関連のコラム

寂しい人だった――あの人を見送って、今おもうこと

もう、あの人を見送って四年が経ちます。
35年間、同じ屋根の下で暮らした舅――主人の父は、私にとって実に複雑な存在でした。

昭和一桁生まれの農家の長男。農業短大を出た後、地元の農協に勤めたものの数年で退職し、以後は家業の米作りと、何やら実態のあいまいな「植木屋」として日銭を稼いで暮らしていました。

思いつきは良いのですが、結果を出すまで継続することができず、途中で投げ出してしまう。
人を集めては「会」を発足させ、自らリーダーになりたがるものの、会議を忘れたり、トラブルが起きると責任を放棄してしまう。
最終的には信頼を失い、解散。
それでもまた、何かを立ち上げては同じ結果を繰り返す。

「役を抱えすぎるな」と姑から何度も言われていたようですが、本人は耳を貸さず。
人を不快にさせる不用意な一言も多く、陰口や嫉妬も目立ちました。

ある時、私は舅が主催する会議を再三すっぽかして苦情が来た際に、
「ちゃんとお詫びしたほうがいいのでは」と伝えたことがありました。

その瞬間、彼の顔色が変わり、「嫁のくせに生意気だ」と怒鳴られ、
私は殴られて鼻の骨を折りました。
それでも彼から謝罪の言葉を聞くことは、最後まで一度もありませんでした。


それでも、私は家を出ることなく、逃げずにその家を守り続けました。

子どもたちを育て、日々の営みを支え、
何より――
孫にとっては、彼は良き「じいちゃん」だったのです。

だからこそ、最期のとき、私は心に決めました。

「この人を、主人の親として、恥ずかしくない形で見送ろう」

そう思って、自分の持てるすべての技術と知識を注ぎました。
整った死に顔に形成し、感染管理も完璧に施し、火葬まで美しく保ちました。
弔問客の多くが、「まるで眠っているようだった」「立派なお姿だった」と驚かれていました。

感謝の言葉も、謝罪もなかった。
でも私は、自分の誇りとして――
あの人の人生の最後の一幕だけは、美しく整えて送り出したのです。


そして、今になって思うのです。

あの人は、寂しい人だったのだなと。

「家長」であり「学歴もある自分」が、
実際には、生活の場面でも、地域の中でも、
何一つ“実を結ぶこと”ができなかった。

私が実務を回し、地域から信頼を得ていくなかで、
彼の心にはきっと、嫉妬や焦り、
そしてどうしようもない寂しさが渦巻いていたのかもしれません。

「嫁のくせに目立つな」
「自分より上に立つな」
そんな言葉や態度の裏側にあったのは、
きっと、「自分を保ちたい」という必死のプライドだったのでしょう。

けれど、人は誰しも未熟なまま老いていくことがあります。
そして最後に残るのは、身につけた肩書きでも、財産でもなく、
人としてどう見送られるか、ただそれだけなのだと、私は実感しました。


家庭によっては、途中で別居を選んだり、親との関係を断つこともあるでしょう。
親の振る舞いがもとで夫婦が壊れてしまうことも珍しくありません。
そんなとき、本人が自分の言動に原因があると気づくケースは少ない。
もしかしたら気づいていたかもしれないけれど、
「気づいて、なお、行動しなければ意味がない」のです。

私たちは――踏みとどまりました。

今、夫はこう言ってくれます。

「同居なんかするんじゃなかった。
自分もいつまでも子どもだった。
お前には、とんでもない苦労をさせてしまった」

そして今は、残った姑とは適度な距離を保ち、
私と向き合ってくれています。

ようやく、夫婦として「お互いを見る」という場所に立てたのだと感じています。


あの人は、確かに私にとってつらい存在だった。
でも、私は彼の最期に、自分の手で“誇り”を与えた
それが、私の中でひとつの「けじめ」であり、
「赦し」だったのかもしれません。

そして今、私は心から自分に言いたいのです。

「本当によくやったね」と。

そして、

「あの人は寂しい人だったけれど、
最後だけは本当に、立派だった」
と、
そっと胸の中で、伝え続けていこうと思います。