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ご遺体のお医者さん

2023.09.29 コラム

看護の専門人が自分の身内を看取った事

こんにちは、遺体感染管理士のエンゼル佐藤です。
今回は、自分の身内を看取ったお話です。

2022年6月に、自分は35年間同居していた主人の父を看取りました。
享年88歳、慢性心不全でした。

診断を受けたのは2020年に、脳梗塞で倒れて病院に受診した事で、心肺機能の低下を医師に指摘された事でした。
幸いと言うか、脳梗塞自体は重い後遺症にはならずに、直ぐにリハビリを開始した事も幸いして、自力で排泄や食事ができるまでに回復しました。
しかし、心臓機能の数値が悪くこのままでは心肺機能不全になるとの診断が出たのです。
ですが、既に高齢ということもあり、出来るのは現状維持という状態。
まあ、年だからねという事です。

それまでは、入院する様な大病も無く消化器疾患と泌尿器系で、外来ではお世話になっていました。
実は舅の母、つまり主人の祖母ですが、自分たちが結婚して三年目に心不全で亡くなっていました。
その時も、舅の様に自宅で脳梗塞発作を起こして救急で運ばれて、診察を受けてみたら心臓が悪いと診断されて、結果的に退院できずに入院後三か月で亡くなりました。
享年77歳。
明治生まれの人でしたから、その年の平均寿命がやっと80歳を超えた頃で、凄い高血圧があったにしては、それなりではなかったかと。

思えばひ孫が生まれた年で、嬉しそうに抱っこをしてニコニコしていたものでした。
そこまで子孫の血が繋がったのを見て、安心したのかどうか、その年の暮れに亡くなりました。

舅さんの逝き方も、実はひ孫がやはり生まれた年で、病状も同じ様に脳血管疾患から始まり、最後は慢性心不全で逝ったのです。
血の繋がりを見て、安心しながら逝った姿は親子でそっくりだと思いましたね。
コロナ過で、病棟には入れずに着替えや差し入れは玄関先の受付でスタッフにお渡しするのが精いっぱいで、亡くなる二日前に意識が朦朧として来た時に、2人くらいづつ実子と配偶者のみの面会が許可されて、どうにか会話は出来た様です。
実は、一番最後に会ったのが自分だったのですが、それはナースステーションにエンゼルケア(死後処置)はこちらで全て行う旨の申し送りを確認する為に訪問していたついででもありました。

感染予防に気を使っていたので遠慮はしていたのですが、看護師さんが気を利かせて下さって、必要な処置の確認も含めて、面会しました。
その前日には意識もほとんど無かったらしいのですが、自分が声を掛けると薄っすらと目を開けて、こちらの問いかけに「うんうん」と、反応してきました。

「頑張ったね、もう十分に頑張ったよ。苦しいかな?痛みはあるかな?」
その問いにニコっと。
もう、末期で脳内からエンドルフィンが大量に出ていて、本人は辛くは無いのだと思いました。

その日の深夜に病院からの電話で心臓が停止した旨の連絡があり、主人と道具を持ち伺いました。

終末期ケア専門士の資格を取った

自分が病棟看護師だったのは、遥か30年も昔の話。
しかも、自分は外科系。
その後は慢性期疾患で在宅介護の訪問看護師をしていたので、病棟での医療知識はかなり古いものでした。
なので、最新の医療体制を知る意味で50を過ぎてからの再度の勉強が始まりました。
結果的に、終末期ケア専門士の資格を取るまでに発展!
勉強は大変な事ではありましたが、知ると知らないとでは対応するにあたって、かなり有利に対応できる事になり、学びはやはり大切だと痛感しました。
知る事により、病院スタッフへの治療への要望の伝え方や、受けられる事、本人の苦痛の緩和に有効な方法など、医師とも円滑に情報伝達が出来たかと思います。

終末期は治療より、患者の残された時間のQOLを重視して、いかに苦痛を緩和するかに重きを置きました。
慢性心不全は不可逆性で、一度落ちた機能は回復しないので、治療はあまり有効では無いのです。
むしろ、無理な治療は本人に苦痛を与える行為にさえなってしまいます。
お陰で舅さんは、多くの末期心不全患者が投与されるモルヒネを受けずに、穏やかに逝きました。
自分は外科系が多かったので、現在の終末期の慢性心不全患者が実は癌疼痛より、キツイ痛みを感じるのだと知った次第でした。
しかも、実はこの事は未だに余り周知されていない事。
慢性心不全は眠るように穏やかにとか、ぽっくり逝くなんて思われているのかな。
医療が発達したお陰で、寿命は延びましたがその弊害で、実は最後に苦痛を感じる状況が生まれていたのですよ。
昔は、人はエネルギーを使い果たして枯れ木みたいになって逝ったのですから。
栄養満点はつまり、生きる燃料がたっぷりで中々に逝けないのです。
飛行機が上手に着陸するには燃料は空に近い方が良い訳で、人間の終焉にも同じ事が言えますね。

畳の上で死ねない現在


さて、2000年以前はまだまだ「畳の上で死ぬ」事が田舎の旧家では普通にあって、町医者と言われる存在も多く、往診とかが受けられる時代背景もありました。
思えばゆったりとした時代でしたね。

介護保険法が施行されて、介護のスタイルが激変をして老健施設が続々と増えだし、田舎での介護の考え方にも大きく変化が起きたのです。
″人様のお世話になるのは恥ずかしい”からが
”介護保険を払うのだから、使わないのは損である″に考え方が変化してきました。

そもそも、平均寿命が延びて当時の親たちが70歳前後で亡くなっている訳で、90歳近くとか100歳超えとかの先輩が居なかった訳ですから、長い老後の生き方なんて誰も知らない訳なんですよね。
細々と診察していた町医者と言われる存在も、医療がすっかりビジネスになってしまい、効率化を図らずにはいられなくなり、経営体制も激変して「往診」業務は影を潜めました。
代わりに、老健施設を利用する人が増えて、人の終焉が自宅から病院・施設にシフトしました。
明治・大正時代の平均寿命が40代前半との統計があり、僅か100年未満で急激に寿命がプラス40年とか、当時の人が予想なんてしていませんよね。

それともう一つは、自宅で家族を看取った経験者が居ない事も一因かと。
実は、舅さんは最初は自宅で看取る意向で、準備をしていたのです。
往診してくださる医師も何とか探して、さてこれからって状態の際に、苦痛そうな親を見て主人が根をあげて病院に運んでしまいました。チャンチャン 
そう、看取りを家族が我慢できないのも一因です!
人の終焉はドラマみたいではありませんので。

人生80~100歳をどう生きるか?なんて誰も子孫に教えてはいないのですから、そりゃお手本が無いのですから、対応に苦慮するのは当たり前かと。

まさに「君たちはどう生きるか」ですね。